ハチス企画 「ハッピーな日々」キュートなウィニーで観るベケットの不条理劇

【ネタバレ、分離しています】
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どもっ\(´▽`*)。てっくぱぱです。昨日観た芝居の感想です。

公演前情報

公演・観劇データ

青年団若手自主企画vol.77 ハチス企画
「ハッピーな日々」
2019/01/18 (金) ~ 2019/01/27 (日) アトリエ春風舎
脚本 サミュエル・ベケット
演出 蜂巣もも

観劇した日時2019年1月25日 19時30分〜
価格2500円 全席自由(事前にネット予約)
上演時間100分(一幕60 休10 二幕30)
Corich満足度★★★★☆(4/5点満点)

客席の様子・観劇初心者の方へ

演劇好きか、演劇関係者しかいないと思います。ほとんどの人が、アゴラの助成会員証を出してましたし。内容が内容だけに、おなかがグーとかいうと、めちゃ聞こえます。
観劇初心者には、まったく勧められない舞台です。

ハチス企画?

ハチス企画のホームページには以下の解説があります。

演出家・蜂巣ももが青年団内で発足した演劇企画。戯曲が要求する極限的な身体を引き出すことで、圧縮された「生の記憶」と観客が出会う場所を演出してきた。
​​1989年生まれ。京都出身。青年団演出部所属。 京都造形芸術大学舞台芸術学科入学後、演劇とダンスの境はどこにあり、非現実的な身体と言語は果たして共通しているのか、伊藤キムや寺田みさこに師事しながら考え、学ぶ。
2013年からより多くの劇作家に出会うため上京し、こまばアゴラ演劇学校無隣館に所属。古典から現代の作家まで、広く上演を行う。

演出の蜂巣さんがする公演企画名かと思います。

事前に分かるストーリーは?

「ハッピーな日々」は、20世紀を代表するノーベル文学賞受賞作家、サミュエル・ベケットの有名な戯曲。でも、私も読んだことはありません。

この物語に登場するウィニーは、50歳くらいの女。隣にいるウィリーは60歳くらい。だまし絵のような焼けた荒野のなかで、彼女は一幕目腰まで地面に埋まり、二幕目は首まで埋まって、”ハッピーな日”を今日も始める。

という事で。最近、この「ハッピーな日々」(原題:Happy Days)の新訳が出版されたようで、この公演は、新訳に基づいた作品のようです。

読んだことはありませんでしたが、事前に学習せずに、先入観なしに観てみることにしました。

ここから先はネタバレあり。
注意してください。

感想(ネタバレあり)

17年位前に「ゴドーを待ちながら」を観に行って以来の、ベケット。

感想を書き始めるも、完全に気持ちが負けている自分に気が付く。舞台を観たら、自分のために感想を書いてブログに残すと自分に決めた事もあり、何か書かねば、とは思うのだけれど。「ベケット」ってやはり難解。「ゴドー」もそうだが、明確に筋の通ったストーリーがあるわけでもない。結局自分が感じた事をストレートに書いていくしかない。いつもの観劇以上に、心をえぐるのが必要だろうな、と。

ほぼ時系列的に、開演から終演まで、感じたことを書いてみる。

ベルが鳴って開演。客入れ中から突っ伏して寝ていたウィニーがむっくり起き上がる。ウィニー役の岩井由紀子が、可愛い・・・というかキュート。あの表情を見ているだけで、不条理劇だったことを忘れてしまう。50歳には見えない。しかも滅茶苦茶、楽しそうに、ずーっと喋ってる。まさに「ハッピーな日々」。「昔っぽい!」って舌を出すのが何度も出てくるんだけれど、毎回、変顔がちょっとずつ違ってて可愛い。気が付けば、止めどなく喋り出すウィニー。

ウィニーが埋まっている「土」は、蜘蛛の巣というか、蚕のように張り巡らされた毛糸のようなものの中心。舞台セットだけ見ると、どちらかというと「何かをからめとる存在」という印象を持つ。ただ、客観的には「ウィニーが自分から入り込んでいる」と解釈する方が正しい気がする。しかし、ウィニーの話を聞いていると、彼女はそこから出たがっている(少なくとも言葉上は)。つまり舞台セットは、ウィニーの視点で描かれた情景、ということか。
夫のウィリー。座席の角度の問題で、一幕では足しか確認できず。見えても見えなくてもいいんじゃない、っていう役だと思うので自体は不自然さはない。単純に、何しているんだろう、って思ってしまう。どうもハイハイしているようだ。

誤解を恐れずに書くと。ウィニーの話は、やはりどこか退屈だ。身支度の話、身の上話。夫とのすれ違いの会話。どんなにキュートなウィニーでも、客は眠くなるのが自然な気がする。休憩含めて100分の芝居とあらかじめ聞いてたけれど、半分の45分で一幕終わるのかな、とか考え出す。要は、彼女の言葉に途中から興味を失っている自分に気が付く。ふと、周りの反応を見てみると、3人くらい寝ている人を発見。ちょっと目を閉じたら、私も30秒くらい意識を失なう。この眠りは、必然、狙っているんなんじゃないか、とさえ思えてくる。

彼女は自分自身が「何かにからめとられている」と思い、私は「自分から入り込んでいる」と思う。そしてその言葉は、キュートだけれど、どこか退屈。何なんだぁ?この状況、という、正にベケットの世界、ベケット地獄に、落ち込んでいる自分に気が付く。
早くしないとお休みのベルが鳴る、お休みの歌はタイミングが大事、と身支度を片づけを始め、歌うタイミングを考えるウィニー。ウィリーは、もうどこかに行ってしまったようだ(見えない)。でもベルは鳴らず、歌も歌わず、一幕は暗転。

二幕開幕。ウィニー。首まで埋まってる。身支度をしようにも、手が埋まっていてカバンにとどかないから、櫛も歯ブラシも、お化粧も取り出せない。最近は髪の毛も手入していないと、ぼやくウィニー。一幕と二幕の間に何があったのか。私は、歳を重ねたという解釈をした。相変わらず、「からめとられている」のか「自分から入り込んでいる」のか、どちらともとれる。

一幕では喋り続けていたけれど、二幕ではよく寝るウィニー。その度にベルがなって、起こされる。起きるたびに、いつものように喋り出す。首から下は、すべて埋まっているのに、1幕よりもなんか更に可愛く感じる。今度は「・・・ぜんぜん・・・」っていう脱力気味の言葉が切ない。
「音は頭の中にあると思っていたけれど、間違っていた。音は外にある。音が愛おしい。」という。また時折「まだ聞いていてくれる人がいてくれてよかった」とも。観客の存在がウィニーには見えているのか。それとも、たまに名前が出てくる過去の知己や、ウィリーについて言っているのか。書割のような景色に言っているのか。よくわからず。でも、こちらの存在を知られている気がして、一瞬ぎょっとする。だって、君の話はたまに眠いんだもの。

気が付くと、ウィリーがタキシード姿でカッコよく出てきた。彼女に近づこうとするも「土」に阻まれて近づけず。ウィニーは歌を歌い、幕切れが来たことを教えてくれる。そして暗転。

幕間、最近出版されたという新訳版の本が置いてあったので、ペラペラ見てみる。セリフは、台本そのままなんだな、という事がわかる。あまりにも舞台のウィニーがキュート過ぎて、独自な言葉を加えているんじゃないか、と思ったのだが、間違っていた。さらっと見た感じ、新訳版の脚本に忠実なようだ。そうなると、今回の岩井由紀子版というか蜂巣版というかの「Happy Days」という事。演じる人、演出によって全く変わってくるのかな、と思う。出版もあり、近々他団体の上演も続くようなので、観てみようかと思うが。

・・・ここまで書いたところで、やはり解釈にヒントが欲しいと思い。当日パンフレットを、初めて読んでみた。そこには、「(今回の演出は途中で)死を扱っていると気が付いた」「○○出来ない、の裏にある死。」などという言葉が並ぶ。

私の観たこの舞台のウィニーは、「ヒトとしての死」や「精神的な死」に「からめとられていく」と思っているのかもしれない。あがなえない(と思い込んでいる)何かに対して、少し穴を開けて「ハッピーな日々」と。でも、客席から見るとそれは「自分でその穴に入り込んでる」ようにも見える。だからこそ、途中のウィニーの話が(必然的に)退屈にもなる。

毛糸で出来た「土」。あれは横からハサミを入れていったら、奇麗に切れるんだろうか。最後の一本を切り落としたとき、ウィニーの立ち姿と、私の席からは見えなかったウィリーが、見えるんだろうか。骨格だけの舞台になったウィニーが、次に何を喋り出すのかな、と想像。彼女は、不安で泣くのだろうか。ついにその拳銃を使うのだろうか。そんな想像をしてしまった。

舞台