<観劇レポート>ピストンズ「夢見る喜世子レヴュー」
観た芝居の感想です。
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
団体名 | ピストンズ |
回 | ピストンズ#9 |
題 | 夢見る喜世子レヴュー |
脚本 | 小林涼太 |
演出 | 小林涼太 |
日時場所 | 2019/08/15(木)~2019/08/18(日) 花まる学習会王子小劇場(東京都) |
劇団紹介
CoRich劇団ページにはこんな紹介があります。
演出家と脚本家からなるプロデュースユニット。
主に英米ポップ・カルチャーを題材に、ウェルメイドであり、エンターテインメントであることを重視した作品作りを目指す。根底には常に「負けてしまった人・選ばれなかった人の物語」というテーマがある。
事前に分かるストーリーは?
劇団ホームページには、こんな記載がありました。
それでも喜世子は夢を見る。
この町で彼女が街娼となってから月日が経った。
有楽町からはかの有名な元締めが去り、政府の取り締まりも厳しくなってきている。
そんな中、彼女は小さいけれど居心地の良いパンパン集団に身を置いて
日々を過ごしている。
そして進駐軍の引き上げが噂され始めた頃、
彼女達が溜まりにしている場所に一人の物書きが現れた。喜世子が夢見る楽園は、上海租界の水の底。
喜世子が夢見る楽園は、モンマルトルの煤けた小部屋。
ガンジャの地平線、アヤワスカの万華鏡。きっとそこでは痛みは甘く、貧しさだってかぐわしい。
観劇のきっかけ
前回公演の評判を聞いたのと、チラシを見て気になっての観劇です。
ネタバレしない程度の情報
上演時間・チケット価格・満足度
観劇した日時 | 2019年8月15日 15時00分〜 |
価格 | 3800円 全席自由 (事前にネット予約) |
上演時間 | 110分(途中休憩なし) |
個人的な満足度 CoRichに投稿 | ★★★★★ (5/5点満点) |
客席の様子
男性8割、女性2割くらい。男女ともに、いろいろな客層の方がいました。
観劇初心者の方へ
ちょっとエッチいシーンが多いですが、観劇初心者の方でも、基本は安心して観劇できる舞台です。
観た直後のtweet
ピストンズ「夢見る喜世子レヴュー」110分休無。
昨年見た、戦後の女達の風俗を映した奥村泰宏・常盤とよ子の写真展の世界が立体化したような錯覚。ありきたりかもだが、ハマの白粉のあの人はこんな事を思い立ち続けたのかと思う。
全編ドキドキ。女達の演技が哀しくも生き生きしていて!超オススメ!— てっくぱぱ (@from_techpapa) August 15, 2019
感想(ネタバレあり)
ストーリーは。
アメリカ軍が進駐軍として駐留している、戦後の日本。古い劇場を溜まり場にしている、パン助・・・パンパン・ガール達の物語。そこには、高級娼婦として噂が囁かれている喜世子、という女が仕切っているとの噂。だが、喜世子の姿を見たものは誰もいない。新聞記者が、パンパン達の生活を特集する記事を書きつつ、伝説の喜世子の存在に迫っていく。そんな中、時代は移ろい、米軍の駐屯も終わりを迎え、パンパン・ガールたちも身の振り方を考えねばならなくなる。ある日、喜世子は消え、そこから全てが崩れていく・・・。と話だけを強引にまとめるとこんな話。
2016年の作品の再演とのこと。まず誤解のないように書いておくと、この物語の舞台は、東京・有楽町だという事。横浜ではない事をお断りしておきつつ。
昨年、横浜の都市発展記念館で開催された「奥村泰宏・常盤とよ子写真展 戦後横浜に生きる」という写真展を見た。常盤とよ子の被写体として特筆すべきは、いわゆるパンパン・ガールだった。横浜は米軍の駐屯地としては非常に規模が大きかったが、そこで娼婦として生きる女たちの写真が収められていた。米軍にすがりながら街を歩く様や、パンパン・ガールたちの日常。そして、売春防止法の施行で病院に列をなして「更生」をしようとする女たちの公文書記録、など。この写真展が捉えているものは、ほんの60年ほど前の出来事であることに驚いたものの、同時に、そこに息づく女たちの生き様や、喜び、哀しみ、といったものに、写真という小さな窓から時代を覗き込んだ身としては、想いを馳せずにいられなかった。
今回の「夢見る喜世子レヴュー」は、その時見た世界を、そのまま立体的に演劇にしてくれたように感じた。写真で見た世界が、突然呼吸をする存在として、見えるようになった。私には、写真展の影響もあり、横浜の物語のように思えてならなかったが、戦後の状況という意味では、都市部では、大きく変わらない状況だったのだろうとは思う。
あるいは、米軍兵とパンパン・ガールとの混血児は、この時期多く生まれていて、山崎洋子の書いたノンフィクション本、・・・混血児を経済的にも精神的にも育てられず・・・、亡くなった赤ちゃんを埋葬する場所がなくて、お寺の裏の敷地がお墓になった話・・・も思い出す。
私にとっては、実際の写真展や史実と関連付けるような、リアリティを持った立体感が、この作品にはあった。写真展や上記の本は、この作品を観るため予習だったんじゃないかとさえ思えてくるほどだった。
中核となる、喜世子という女性。物語の結末を言ってしまえば、喜世子は存在しない幽霊だ。既に戦中に亡くなっていた踊り子。その踊り子が残した戯曲の切れ端を、パンパン・ガールたちは夜な夜な、読みながら、いもしない「守り神」の存在を奉っていたことになる。望んだ訳でも、楽しい訳でもない。目の前に仕事に対して、とにかく生きていく、という命題を与えられた女たち。喜世子は、彼女たちの居場所、未来への儚い夢。・・・夢が花開く場所と、その夢が壊れていく行く場面が、切なすぎる。喜世子のメタファーを考えると、あまりにもいろいろな幸せや、愛や、守護に思いを馳せずにはいられない。少し存在を超越してしまっている喜世子について考えるたびに、引き裂かれるような胸の痛みさえ覚える。
ふと、ヨコハマには、メリーさんという娼婦が、最近まで立っていた事を思い出す。必死に生きていく中で、パンパンという職業を選び、そして、時代の変化とともに、居場所を失って、気が付けば時代にも取り残されてしまったものの、そこで娼婦として生きる事を選んだ人。有楽町が舞台なので、厳密な物語のつながりはないのだけれども、(私の想像する)メリーさんの苦悩と、今日の舞台の描いていたものが、重なて見えて仕方がなかった。
女優さん、パンパン・ガール達の演技が活き活きしていて、そしてとにかく、エッちくてドキドキ。冒頭から下着姿は惜しげもなく晒すし、踊りながら股も開いてドキドキ。そのドキドキが、いつしか「とにかく生きていく」という女たちのたくましさに変わっていき、気が付くと、時代の変化に晒されて物悲しくて。約2時間の舞台、前半のかなりの時間を使って、本筋よりもパンパン・ガールの存在感を見せつけるようなエッチいシーンが続いたけれど、おそらく、丁寧に時間をかけてこの世界に迷い込ませたのだろうと思う。上手く思惑にハマって、気が付くと戦後の時代に入り込めた。なにより、歌と踊り、女優さんたちのアンサンブルが、観ていてとても楽しかった。
物語としては、実は、一つ不満が残る。
大和田あずさ演じる八重のラストの叫びは、八重本人に対してでさえ「わかったような事、言うな」なのではないか。多分、私自身も含めて、パンパンとして生きた人でなければ誰にとっても、分かったような事でしかないのだろう、と思う。写真展で見て、演劇で見て、思いを馳せることはできても、理解なんておこがましい。戦争の悲惨な歴史・・・なんていう、政治的な話とも、少し違う。その時代にたくましく生きて、傷ついた人の肩の上に、僕らは生きている・・・、なんていう事を、パンパン・ガールの明るさと寂しさの影に、ずしん、と感じずにはいられなかった。その意味で、物語としては、「分かったようなこと、言うな」というセリフが、どこか浮いてしまっていたように思えた。それは、言わなくても気付くように、話を組み立てるべきじゃないのかな、と。その部分だけ、ちょっと不満だった。
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