<観劇レポート>やみ・あがりシアター「じゅうごの春」

#芝居,#やみ・あがりシアター

【ネタバレ分離】


観た芝居の感想です。

公演前情報

公演・観劇データ

団体名やみ・あがりシアター
やみ・あがりシアター第15回公演
じゅうごの春
脚本笠浦静花
演出笠浦静花
日時場所2019/10/17(木)~2019/10/20(日)
アトリエファンファーレ東池袋(東京都)

劇団紹介

劇団ホームページにはこんな紹介があります。

2012年に旗揚げ。
「ヒトのやんでるところとあがってるところを両方、病気が治ったばかりのようなハイテンションでお届けしたい」
というコンセプトのもとに芝居作りを行う

やみ・あがりシアター//

事前に分かるストーリーは?

劇団ホームページには、こんな記載がありました。

中学三年生のじゅうご君は、夏休みの宿題が終わらないまま秋を迎えています。
彼にやってくるのは、どんな春なんでしょう。

???夏休み延長戦???
???自由研究乱射???

観劇のきっかけ

今一番注目している劇団です。


ネタバレしない程度の情報

上演時間・チケット価格・満足度

観劇した日時2019年10月17日
14時00分〜
価格3000円 全席自由
(事前にネット予約)
上演時間105分(途中休憩なし)
個人的な満足度
CoRichに投稿
★★★★☆
(4/5点満点)

客席の様子

男女比は、3対7くらい。平日マチネということもあり、アラフォーアップの女性が目立ちましたが、全体的には様々な年齢の方がいました。

観劇初心者の方へ

観劇初心者でも安心して観劇できる芝居です。

観た直後のtweet


ここから先はネタバレあり。
注意してください。

感想(ネタバレあり)

ストーリーを、まとめて強引に書くのが、難しい。劇中、時間は行ったり来たりするし、現実なのか虚構なのか、はっきりと区別できないところがあるし、観る人によっての解釈の幅ももある様に思うから、捉え方は様々だろうとも思うが。・・・私自身の解釈も含めた形で、ストーリーを表現を試みるなら。

時は1999年。毎年、計画的に夏休みの宿題をこなすような、15歳のまじめな中学校3年生男子、じゅうご。ノストラダムスの予言が外れて、7の月に世界は滅びなかった。滅びるんだから、宿題はやるつもりはなかった。10日弱の失った夏休みの日々があるので、キッチリやりたいじゅうごは、どうも調子が出ない。いつもは褒められる自由研究が、突然手が付かない。そういえば先生は一学期が終わる時「今年は去年よりも、もっとすごい作品を持ってこい」とじゅうごに言ったのだった。そして気がつけば「何もできない」で、夏休みも終わり、学校にも行けずに家にいるようになる。夏休みの自由研究を提出できないまま。大人になり、それでも、夏休みの自由研究にいつまでも取り組みつつ、やはり何も出来なくなって、35歳になってしまった男、じゅうご、の物語。

芝居的には、開演1時間くらいまで、正直なところ辛かった。上手い役者さん達が、ハイテンションで運んでくれるので話に飽きることはないものの、物語にそれ程メリハリがあるわけではないので、着地点が一向に読めないで迷う。15歳のじゅうごの話は、「先生を殺す」事を計画している割りには、どこかのんびり、のほほん、としている。今回は、ハイテンションな青春コメディですか?、という感覚。目をつぶれば異界に飛び出てそうだったのだけれども。

開演1時間くらいで。実は兄だと思っていた男2人は、それぞれ、25歳のじゅうご、35歳のじゅうごだった事が分かる。同じ舞台に立っていたのは、実は別の時間の同一人物で、絡んでいるようで、絡んでいなかったのだ。25歳のじゅうごも、今の「何もできない」状況を脱したいと願って、25歳でも「先生」を殺したいと願っていて。そうこうしているうちに、15歳でも、25歳でも、先生を殺した世界と、そうでない世界が、混ざってきて、さらに混乱させられて。何かのキッカケで、何もできなくなってしまった人の、脱出の可能性、発散の可能性が、何重にも描かれる。

「何もできない」で、25歳になっても自由研究を完成させようとしている、じゅうご。「何もできない」という言葉が、「何者でもない、未成熟な自分」的な、成長できない自分、脱皮できない自分を、表している可能性もあるな、とも思う。とはいえ、先生をリアルに銃で殺してしまうシーンが出てきてから、どこか「何者でもない」なんていう、ノンキな成長物語には見えなくなってしまった。

劇中「ひきこもり」という言葉は、一切使われなかった気がするが、じゅうこが置かれている状況は、一種の「ひきこもり」に近い状況と捉える方が、自然に思えてくる。過去のある時点で、自分がひきこもりになる原因を絶つ光景・・・つまりは、先生をたまたま拾った銃で殺すことを想像する姿を、何度も描く。実際に殺したのかもしれないし、殺さなかったのかもしれない。真実かもしれないし、妄想かもしれない。そして、35歳になったじゅうご。記憶さえ曖昧で。時間や、因果関係が入れ替わるものの、同じようなシーンが何度も展開され、現実と虚構も、よくわからなくなっていく。

「自由研究」が提出できず「ひきこもり」になったのキッカケは、観客からすると些細な出来事のように見える。だからこそ、些細な何かで先に進めなくなった人、一般的な常識から見ると、理解できない「動けなさ」の視点、ものの見方を、丁寧に示したかったのか。そんな事を感じる。

後半、どんどん太っていく35歳のじゅうご、腹に何か入れているんじゃないのか、という漠然とした予想は当たり、そこから、出てくる拳銃。35歳のじゅうごは、自らが「ひきこもり」から抜け出す可能性さえも、その拳銃で撃ってしまう。私自身の感覚との断絶。そこに、救いようのない断絶。そもそも「ひきこもり」を、理解できていない自分を、浮き彫りにさせられて、悲ししい。新聞でみた、引きこもりから発展したいくつかの事件の動機を、分かったようなフリをするのは、ものすごい偽善なんじゃないか、とさえ思えた。理解しようとしても、それは理解したようにお前が勘違いしているだけだ、と言われているようで辛かった。

だからこそ、私にとっては、共感を得られる、と軽々しく言える世界ではなかった。何だか、友人の付き合いで見に来た美術展が、全く趣味じゃなくて理解できずで、思わずあくびしたら、「一緒に来たならちゃんと見ろ」と友人に後頭部をカバンで殴られた感覚だった。殴られたって、美術展は理解はできない。でも、殴られたら痛い。その痛み。その前に、引きずり出されたような、そこはかとない寂寥感だった。

・・・深読みし過ぎかなぁ、と思わないでもないのだけれど。そう感じたのだから。まあいいか。

印象に残った役者さん。加藤睦望、前回の「しょうこ」とは打って変わってて。最初は、同じ人か?と何度も見てしまった。大人になったお姉さんのシーンで、確信持てた。ガングロ上手い。依田玲奈、ギャルが凄い。保険のおばちゃんへの変わり様と、やっぱり変わってないクロ歴史が面白い。大和田あずさ、ああ、こういうタイプの役好きです。多分みんな好きです。はい。川口知夏、世界を諦めて呪っているけれど、何もできないって事だよなぁ。怖かった。馬鹿じゃないと思った。稲波聖大、最後のシーンは辛かった。とにかく観ていて、辛かった。

チラシの裏