映画版「キャッツ」感想、酷評の理由を分析してみた。

#映画

5点満点で「たまねぎ」らしい

映画版「キャッツ」。見てきました。

(アマゾンプライムにも加わりました。2021年3月26日追記)

言わずと知れた、アンドリュー・ロイド・ウェーバーの不朽の名作。Amazonでは、舞台映像を字幕で観れますね。

日本では、劇団四季が日本語版にして、ロングラン公演をしている作品です。
その映画化。
期待ワクワク、でしたが・・・。

・・・12月に出てきた、、アメリカの試写での、記者のレビューコメントが、あまりにも酷い。
「ポルノ映画の後」とか、「ジェットコースターから降りてきて吐きそうな人」とか、「猫にとって犬の誕生以来の最悪のニュース」とか、すごいコメントばかりみたいで…。

特にびっくりしたのは、この評価。


As for a rating, on a 0-5 scale, I give CATS an onion.
「0~5点で評価するとしたら、『玉ねぎ』」

ってのは、すごいよな。

そんなに酷いのか。

あまりにショックで、酷評が話題に乗った後は、あまり積極的に情報入れてなかったんですけれどもね・・・。

昨日、映画館で見てきました。

・・・まあ、たしかに「玉ねぎ」だなぁ。(笑)
辛いっす。特に舞台版みていると、本当にツラいっす。

ただ、あまりに酷すぎて、何故にこの映画「ダメ」なのかっていう理由を、途中から、猛烈に考え出しました。

ひとつの作品を見た時に、
受け手に、ここまで「こりゃ酷い」っていう言葉を産み出させてくれる。その意味では、この映画すごいです。(笑)

私自身は、舞台版「キャッツ」を観たのは、劇団四季のものを、一度だけです。

ストーリーその他、ちょっとあやふやで、ちゃんと覚えていない部分が少しあるものの。
それにしても、「それはないんじゃないの?」っていうツッコミどころが満載でした。

なぜ「玉ねぎ」と思ったのか。
私自身の思った事を、記録として残そうと思います。

ここから先はネタバレあり。
注意してください。

酷評を受けた分析的な感想

ストーリーの解釈が違う

舞台版「キャッツ」と、映画版「キャッツ」。
ストーリーの観点では、映画版も、舞台版も、殆ど違いがない、といっていいと思います。

映画では大きくストーリーが改変された、というのはありません。

細かく解説しているページだと、このブログがとても分かり易かったです。
ロンドン版と四季版との比較もありました。
キャッツ映画の感想。あらすじや劇団四季、ロンドン版との違いは?

映画版で、若干の改変はあるものの、ほぼストーリーラインは忠実に守られているんですよね。

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では、なぜダメか。

一言でいうと

「天に登る猫に、選ばれるために必死になる話」を、強調し過ぎて、他のポイントをことごとく外している点。

なのです。

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舞台版「キャッツ」は、
明確なストーリーラインが示される訳ではない作品です。

私の解釈としては、ストーリーを説明し過ぎない、という、
意図的な演出でもある、と思っています。

なので、舞台を初めて観る人、観劇初心者の場合には、結構戸惑います。
知っている人が一緒の時は、「ストーリーが明確でない」という事だけは、
あらかじめ伝えておいた方が親切じゃないかな、と思う作品です。

では、どんな話か。

「キャッツ」。猫が、単に自己紹介する話、なのです。
「次々に個性的な猫が出てきて、自己紹介する、だけ」
なのです。

ヒットしたミュージカルの中では、少し異色な作品なのです。

自己紹介と同時に、もう一つのテーマ、
「天に登る猫は、どのネコか」という話は出てきますが、
その話は、その話として。
「俺・私、こんな猫っ!」って、自己紹介する。

それが全てです。

そして、ラスト。
娼婦猫、グリザベラが、名曲「メモリー」を歌って天に上った後。
それまでの猫の戯れが一変。

オールドデュトロノミーっていう、長寿猫の、長ゼリフ。
その内容を私なりに要約すると

どうです、猫っていろんな猫がいるでしょ。
みんな自分の(人)生を、生きているんですよ。
犬みたいに、何かに従う存在に成り下がったりしないんですよ。
猫は犬にあらず。
だから、出会ったときは、紳士的に声をかけて友達になるんですよ、皆さん。

って話なんですよね。
突然、どセンターで客に向かって、正面切って、語りかけるセリフで終わる訳でして。
(まあ、いきなり客に語りかけるので、別の意味で、ドン引きしましたけれど。笑)
「まとめ」がこれなので、「自己紹介」な訳です。

「天に召される猫を選ぶ」
っていうのはひとつの主題としてあるのですが、

同じくらいの重さで
「選ばれるかはどうかは、関係なく、自分の(人)生を生きている誇り高いネコの自己紹介」

っていうストーリーが、しっかりある訳なんですよね。

「キャッツ」は、誇り高く生きる「生(せい)」の物語なのです。
それは、猫だろうと、人間だろうと、犬だろうと、きっと変わらないはず、なのです。

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それを、、、、映画版は、
どの猫たちも「俺が天に上る!」って、争ってる感が強いんです。

天に上る猫を選ぶ、長老オールドデュトロノミーに、媚び売ってダンスしている感じ。
自己紹介というより、

これじゃ、オーディションじゃん。

と思うのです。
確かに、ストーリーは同じ。でも、解釈が全く違う。

ラスト「猫は犬に非ず」っていうセリフ、このストーリーだと無くなるかなぁ、と思ったのですが、
オールドデュトロノミーの、客に語りかけてくるセリフは、映画版でもありました。

で、「猫は犬に非ず」って言われてもなぁ。

「天に上るのがそんなに大事なら、おまえら、既に犬じゃんか!!」
「おまえら、既に犬のくせに、何言っとるんじゃ!!ボケっ」

って、ツッコミ、せずにはいられないんですけれどね。(苦笑)

これだと、レディクルキャッツ=オーディションに向かう犬、ですわ。(笑)
┐(゚~゚)┌

消すな、ボケ!マキャビティ

映画版では、自己紹介の歌を歌い終えた猫が、
次々にマキャビティっていう犯罪猫に「消されて」行くんですよね。

ここは、舞台版とはストーリーの改変がされている個所です。

なんか、よく分からん魔法みたいなので、サラッと、粉のように消える。

マキャビティ、確かに舞台版でも、展開を引っかきまわす猫なんですが、
映画版では、歌い終わった猫を、消していくもんだから、

一体これ何の話?
歌い終わった猫は、消されて、死んじゃうの?

と、初めて見た人は、普通にそう思うはずなのです。(え、私だけ?)

結果的には違っていて、
マキャビティはこの猫たちを「消す」=「誘拐」していて、
誘拐することで、選ばれる場(オーディション会場ですなw)から消して、
邪魔者を排除して、自分が「天に上る猫」になろうとしているのが、映画の終盤で判明するわけで。

・・・おっほん。
どうして、どういう解釈したら、そういう脚色になるのかなぁ。

歌った後の猫を消したら、理由が分からないと意味を持ってしまう。
マキャビティのストーリー膨らませただけ、とは言えなくなるし、
そもそも、猫の尊厳、生の尊厳、みたいな要素を、真っ向から否定している解釈だし。

ここでも、解釈の違い、が現れてきました。
ヽ(◞‸◟)ノ

ガスとグロールタイガーが酷い

私、舞台版「キャッツ」の中で一番好きな猫は、
「ガス」こと「アスパラガス」なのです。

昔は俳優だった、役者猫。

歌の出だしの、劇団四季の日本語版の歌詞を引用すると、
別の猫に、こんな風に紹介されて登場する「ガス」。

♪ガスは落ちぶれた芝居猫  何時も佇む楽屋口
本名は「アスパラガス!」 「野菜みたい」 つい面倒だから呼び名は「ガス」
毛並みは荒れて痩せ細り 老いさらばえて震えてる
嘗ては凄い! 二枚目だったとさ その面影は今、何処?

このサイトから引用

かつての栄光はいずこ。

落ちぶれて「今の若い役者は…」とクダを巻きながら、
楽屋口にたむろする、老いた役者猫。

・・・私、大好きなんですよね。

老いぼれたガスは、歌の最後で「かつての栄光を見せようか?」と、猫と客席を挑発してきて。
客席からの拍手にあわせて、・・・突然、若い頃のガスが出てくる訳です。

若かったころの「海賊役」、グロールタイガーを演じるガス。
勢いの良いガス。カッコいいガス。

劇中、どうして突然若返るのか。明確に設定説明はありません。
「回想シーン」と捉えてよいかと思います。

これが、大好きなんです。

是非、ミュージカル版で観てください。

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で、映画版の「ガス」。

昔話を、「他の猫からの紹介」ではなくて、自分で語りだすのは、
映画の流れの中の改変なので、全然、許される範囲だと思います。

「ガス」のパート前半、回想シーンまで。
・・・いい感じで、鳥肌モノなのです。
思わず、涙しそうになるのです。
あー、前半酷いけれど見に来てよかった・・・と一瞬思うのです。

ちなみに、演じるのは、イアン・マッケラン

で、ここから、回想シーン的な、グロールタイガーか?というところ。
「見せようか?見せようか?」と挑発して、観客の猫たちが、拍手するするのですが・・・

その先のシーンが、ない。。。。

舞台袖に引っ込んでるし。

これじゃ、単なる老いぼれ爺さんじゃん!(まあ、それは悪いことではないのだけれどさ)

あーあ。という感じで、がっかりでした。
で、舞台袖に引っ込んだガスは、例によって、マキャビティに消されてしまう…。

だから、爺さんを消すなよ!マキャビティ

・・・ちなみに「海賊猫 グロールタイガー」は、後のシーンで出てきます。
マキャビティが猫たちを消して・・・誘拐していた場所が、その海賊猫の海賊船。
グロールタイガーは、マキャビティの手下として働いている、らしい。

マキャビティの手下とか、そんなの、あり得ないだろ…

(…いや、最初は、この誘拐された猫猫のシーン、あまりにも唐突に予想外に展開するので・・・。
何が起こっているのか分からなかったです。。。
後々、他のブログで解説されているのを見て、理解しました。それくらい意味不明で衝撃的。)

「メモリー」よりも好きな、ガスのナンバー。
それをここまで滅茶苦茶にして。

何もわかっとらんなぁ。
\(´・_・`)/

単なる「全身タイツ」がキモいには理由がある

ここまで解説してきた流れを受けて、

さらに、全身タイツっぽい猫の「気持ち悪さ」もある訳です。
たくさんの映画レビューが指摘している所。

冷静に考えると、個人的には。

ピチピチ感、エロさ、独特のキモさ、っていう意味では、
舞台も映画も、どちらも大差ないかなぁ、と思います。
舞台「キャッツ」も、基本は全身タイツだし。

人間が「猫」を演じている時点で、
何らかの「居心地の悪さ」は、当然あると思います。

ただ、前述の「テーマ」の解釈が正しいとすると、
「キャッツ」は、「だれかの犬」に成り下がることなく、
孤高に自らの好奇心に従い、生(せい)を生きている。
そういう物語な訳です。

猫とか、犬とか、人間とか、ストーリー上は、そもそも関係ないのです。

舞台では、自由の象徴、隠喩として、人間がわざわざ「猫」を、全身で表現しているわけです。

「誰にも縛られない生」を、猫を舞台に出現させることで、
単純に猫を表現するという点を、更に超越したテーマを描き、客に見せてくれる。

もちろん、猫の動きとかのクオリティの高さは、劇団四季版でも「すげぇなぁ」と思いました。
ただ、その「猫を表現していて、すごい」では語れない、そんなの既に超越してるテーマがある。

その、少し超越した表現を見てしまうと、舞台で観る「全身タイツの若干の気持ち悪さ」は、
正直、どうでもよくなってくるのです。
いわゆる「演劇の魔法」。目に見えないものを描くための嘘、として受け止められるわけです。

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・・・という舞台版の、文脈解釈がある中での。映画版。

そういった事を全く無視して~の、

全身タイツの気持ち悪さを、ガチでCG使って再現、なのです。

既に、テーマが失われているのだから。多分、単なる全身タイツの気持ち悪さでしかないですよね。
いや、単なるタイツの気持ち悪さ、以上、ですよね。

舞台で成立する「演劇の魔法」を、映画ではどう表現するのか。
舞台の「魔法」と、映画の「魔法」では、やり方が違う。
その事を全く考えず、舞台に忠実に、全身タイツの猫を、ありのままに再現した…、
というのが敗因かと思います。

猫の要素をからめつつ、出てくる人は全部「人間」の物語にするとか。
「人間」と「猫」を、変身して行き来するとか。
映画版の「魔法」として取り得る可能性は、他にもあったと思います。

映像化に当たって、そういう「解釈」でも、私は「アリ」だと思うし、
何らかの解釈をして、提示すべきだったのだ、と思います。

もちろん「人間」を登場させたら、それはそれで賛否両論呼ぶとは思いますが。
最も大切な「解釈」を崩すよりは、全然アリだと。

その解釈と表現をつなげるのがが難しいからこそ、ここまで映画化されてこなかったわけで。

CGで、がんばって合成した、という点は、
ひょっとしたら技術的には評価できるのかもしれないけれど。

この作品について、何も理解していない人が制作したんだなぁ、
という風に見えてしまうのが、とにかく腹立たしいです。

┐(´∀`)┌ヤレヤレ

結論。この映画は「たまねぎ」か?

という事で。
まったくもって『0~5点で評価するなら、「玉ねぎ」』な映画でした。
You are right. いやはや。

ただ、逆説的に。
舞台表現で、どうして「猫」じゃない全身タイツが「猫」に見えて、それが感動を呼ぶのか。
全身タイツを映像にしても、猫にも見えないし、感動もしないのか、とか。

そんな、舞台に対する特別な想いみたいなものを、
ふと、我々に思い出させてくれる点では、いい映画です。(逆説的にな!)

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