<観劇レポート>露と枕「鼬を噛んでくれ」
【ネタバレ分離】昨日観た芝居、 露と枕「鼬を噛んでくれ」の観劇レポートです。
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
項目 | データ |
---|---|
団体名 | 露と枕 |
回 | 露と枕 Vol.6 |
題 | 鼬を噛んでくれ |
脚本 | 井上瑠菜 |
演出 | 井上瑠菜 |
日時場所 | 2021/09/15(水)~2021/09/19(日) 「劇」小劇場(東京都) |
団体の紹介
劇団ホームページにはこんな紹介があります。
早稲田大学演劇研究会を⺟体とし、井上瑠菜を主宰として 2018 年 4 月に旗揚げ。
「人は、一人では生きていけない。人は、人に依存してはならない」
そんな矛盾した正論を受け入れられない人たちが、必死に人に依存する、壮大で繊細な夢物語を紡いでゆく。
過去の観劇
- 2022年06月03日露と枕「帰忘」
- 2020年11月19日露と枕 「ビトウィーン・ザ・シーツ」
事前に分かるストーリーは?
こんな記載を見つけました
閑静な住宅街の一角で、若者たちがルームシェアを始めたらしい。
彼らは人並みに礼儀正しかった。夜中にうるさいわけでも、ゴミ出しのルールを守らないわけでもない。
ただ、あの家に住んでいるというだけで、人々は彼らを奇異の目で見ている。前の住人である家族が、あそこで心中したそうだ。
彼らは、至って普通に日々を繰り返している。
あの家で何が起きたかを知っていて、どこで誰が死んだか分かっていても。
彼らにだけは前の住人のことが視え、声が聞こえても。ただ座っていた血塗れの女が、恨み節を吐いたあの夜だって、
別に何でも、どうでもよかった。「いーじゃん、殺してもらおーよ。せっかく“殺してやる”って言ってくれてんだから。」
首を振ろうにも、頷こうにも難しい、彼らの話。
未練を残せた人間の言葉なんて、生きる枷にもなれやしない。
ネタバレしない程度の情報
観劇日時・上演時間・価格
項目 | データ |
---|---|
観劇日時 | 2021年9月15日 19時00分〜 |
上演時間 | 115分(途中休憩なし) |
価格 | 3500円 全席指定 |
チケット購入方法
劇団サイトから、当日清算で予約しました。
当日、Suicaで決済して、座席指定された券をもらいました。
客層・客席の様子
男女比は5:5くらい。
様々な年代の方がいました。
観劇初心者の方へ
観劇初心者でも、安心して観る事が出来る芝居です。
・シリアス
・シンプル
観た直後のtweet
露と枕「鼬を噛んでくれ」115分休無
劇団2度目。役者さんが上手いなぁ。でもお話はよく分からなかった。前回も感じたけど、分かるようで分からない何かってのが作風なのかなぁ。あっち系の作品って割り切って捉えるにはあっちに振り切ってないし、語られてないことを想像するには情報が足りない気が。 pic.twitter.com/IfnSwxGjyv— てっくぱぱ (@from_techpapa) September 15, 2021
満足度
(3/5点満点)
CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
感想(ネタバレあり)
ストーリーは事前説明の通りなのだけれども。心中した一家・・・とおぼしき何かが、シェアハウスに住む人には見えている。でも、観客には見えない。シェアハウスに住んでいないけれど、部屋を訪れる人にも見えない。どうやら、何らかの理由があって「見える」人々は、ここに集まってきてしまったらしい。この部屋に住む以前にも「見える」事が生きづらさだったらしい。そんな人々の物語。
役者さんが上手い。この変なシチュエーションで、「見えないものが見える」状況に、ものすごくリアリティがある。梅田優作の演じる、一見優しそうでいて、実はものすごく暗い背景を持っていそうな人物像が終始怖いし。野村亮太の演じる、何に焦っているのかよく分からないけれど、どうやらブラック企業っぽい所で働いているらしい様子は、今まで拝見した演技とはだいぶ違っていた。ヒラザワタケルの演じる、ふにゃふにゃしているけれど、やっぱり大きく暗い背景を飄々として生きてきた感覚。小林桃香の、あのたどたどしい「ごめんなさい」連発の会話から見えるパーソナリティ。澤あやみの、きっと悪い奴じゃないんだろうなぁ、けどどうしてこんなにひねくれたのかな、的な感覚。そして、それぞれが「見えないものが見える」事に、なんとか折り合いをつけながら向き合っている。そういう濃厚な人間関係を見ている分には面白い。
ただ、物語という意味では、上手く理解できなかった。前回「ビトウィーン・ザ・シーツ」を観た時にも感じた事が蘇る。前作では「性」を描いている(ように見える)のに、性を直接語らず、あくまで周辺を縁取る描写。テーマがテーマだけに、とても幼く見えた。今回の作品も「見えないもの」が直接的に語られる事は無い。観客は「本当にいるのかな」という疑いを、終始持ち続けるくらいの曖昧さの中にいる。それでも「見えないもの」は確かにいる。その曖昧さ、明確には語らなさ。・・・2作観る限りは、そういう絵描き方が作風なのだろう。だとすると、前回「性」を描かないのは「幼い」と感じたのは、誤った感覚だったかもしれない。
情報を与えられない中で、観客側が「想像で補って」観る演劇は、とても好きのだけれど。与えられる情報が少ないからなのか、効果的でないからなのか、想像で補っても一点の像を結ばない事にとてもフラストを感じる感覚だった。客席が、水を打ったように静かだったけれど、個人的な感覚では「情報を聞き漏らすまい」という静けさのように感じた。
・・・と、ここまで書いて。当パンのご挨拶を読んでみると「信じさせること」について書かれていた。演技の巧みさもあり存在は信じられるけれど、演劇として観る以上その外に出たい、という事になるか。