<観劇レポート>セツコの豪遊「授業」
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
項目 | データ |
---|---|
団体名 | セツコの豪遊 |
回 | 第五回本公演 |
題 | 授業 |
脚本 | ウジェーヌ・イヨネスコ |
演出 | 宮村 |
日時場所 | 2023/07/15(土)~2023/07/17(月) Ito・M・Studio(東京都) |
団体の紹介
劇団ホームページにはこんな紹介があります。
セツコの豪遊
2015年3月14日旗揚げ。
主宰の宮村が一人で活動。
劇団名は、卒業公演(sotsugyokouen) のアナグラム。
過去の観劇
- 2024年03月08日 【観劇メモ】セツコの豪遊 「殺意(ストリップショウ)」
- 2022年07月31日 セツコの豪遊「自亡自記」
- 2022年03月26日 Ito・M・Studio演技研究クラス「殺意(ストリップショウ)」
事前に分かるストーリーは?
こんな記載を見つけました
老教授の自宅に、若い女生徒が授業を受けに来る。が、授業は全然進まない。あと、女中がやたら出たり入ったりする。
ネタバレしない程度の情報
観劇日時・上演時間・価格
項目 | データ |
---|---|
観劇日時 | 2023年07月16日 16時00分〜 |
上演時間 | 65分(途中休憩なし) |
価格 | フリーカンパ制 全席自由 |
観た直後のtweet
セツコの豪遊「授業」65分休無
作品初見。面白かった!不条理劇って事以外は特に前知識入れずに観たけど、途中から何年くらいの劇作だろう?ってのが気になる。ラストの描写でなんとなく推測できるも。これ、現代に置き換えると色んな別な意味を持つよね。不条理というより、皮肉たっぷり。オススメ! pic.twitter.com/NF30YislHM— てっくぱぱ@観劇垢/2 (@from_techpapa) July 16, 2023
満足度
(4/5点満点)
CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
感想(ネタバレあり)
イヨネスコの有名な不条理劇らしいが。私は存在すら知らなかった。演劇を専門に学んだ人の感想がTwitter流れてくるが、割と有名な作品らしい。学生時代好んでいたのもあり、不条理な小説は結構読んでるつもりだけれど、思えば不条理な「劇作」は、別役実の作品くらいしか、有名どころは知らないかもしれないなぁと。不条理演劇、と言われて突如驚く感じで観劇。
描かれるのは、大きく2つの授業。ひとつは、算数の授業。女学生は、足し算の「問題と答え」を暗記しているので、引き算になると全くできないし、どうやら「数字の意味」すら理解しているか怪しい。もうひとつは、外国語。一見、世界中の言語を教えているかのような教授だが、差なんてなくて、全部同じ言葉を教えている。そうこうしているうちに、女学生を殺してしまう教授。「間違いのもと」だと言っていた女中と共に、死体を埋めて、ハーケンクロイツを身にまとい、そして次の生徒を迎える。冒頭に戻ってループのように続いていく「授業」の話。
演劇に、唯一の正しい解釈は存在しないけど、不条理劇であるが故、特に自分の観た視点として明記して残しておくと。
「不条理劇」くらいしか前知識を入れずに観たのもあり、観ている途中から、いつ頃書かれた作品だろう・・・というのが気になりだす。特に後半の、外国語の授業。教授は異なる言語について解説しているのに、何を話しても同じ言葉しか出て来ない。例文の内容も含め、明らかに多様性をバカにしているようなモノ言いが続く。一方女学生の方は、歯が痛いと言って教授の言ってることを全然聞いていないというか、相手にしていない。・・・そんな手掛かりから、何となく1940年代、第二次世界大戦中の劇作じゃないかなぁ、と思う。ラストにハーケンクロイツが出てくるので、大体そのくらいかな、と確信するも。観終わって調べてみると1951年。戦後に、ナチスがしてきた事を皮肉った劇作、というのがストレートな受け取り方、という事か。
最初は優しく話している教授が、気が付くと激高。女中は、「あーあ、また殺しちゃった。忠告しましたよね。」みたいに、ものすごく冷めた目で見ている。冒頭、女中の部屋の準備シーン。テンポが良いとはいえずまどろっこしく感じるのだが、ラストにまどろっこしさを繰り返されると、同じことを繰り返すぞ、というメッセージにも見えてきて、どこか戦慄さえ覚える。この感想を書くまでに、イヨネスコが大戦でどのような負の経験をしたのか、という事までは調べられなかったのだけれど、あの時代に渦巻いていた「ある文化的な見方の強要」という事だろうか。・・・そういえば、今起こっている戦争だってロシアの為政者は「自分の歴史観が正しい」と言っているなぁ、なんて事を思う。人間は、こんな事を繰り返してきたのかと思うとちょっとゾッとする。
イヨネスコの時代から離れて、令和の時代、という視点で見てみると。前半の数学の授業は、何だかchatGPTで作ったレポートを出しちゃった、賢くも間の抜けた学生にも見えてくる。足し算のバリエーションとその答えを全部暗記してるも、引き算は出来ない・・・、いやそもそも計算が出来ない。それでも「すべての博士号を取る」とか意味不明事を言う女学生は、ネットやら何やらで、簡単に膨大な知識を手に入れてしまう、今の人間たちにも見えてくる。後半の授業は、もはや多様性を理解しない老いた教授が、言語の違い、というものを振りかざして、むしろ「違いによる分断」を促進しとしているように見える。例えるなら、同性婚を決して認めない老いた政治家のような、厄介な人たちのように。
そして、全体があたかも「コメディ」のように展開する作品。後半の外国語の授業の滑稽さに、途中からクスクス笑いが止まらない。教えた気になっているが、実は何も教えていない教授。傍から見ていると「バカじゃないの」というツッコミしか出て来ず、気が付くと宮村が演じている教授が志村けんのコントのようにも見えてくるし、倉里晴の着ているセーラー服は似合すぎてて随分と安っぽいステレオタイプな女学生だなぁ、という風に見えてくる。ごく自然に、ある種の「風刺画」・・・不条理と言うより、世界に対する皮肉を、皮肉を込めて、たっぷり詰め込んだ演劇作品、に変容してくる。
「授業」は、世界各地で未だに上演されているらしい。初見なので、一般的にはどのように演出されるのかは分からないものの。他の演出で、この「皮肉の要素」がどの程度織り交ぜられているのかが気になり、他のバージョンが観てみたくなった。