<観劇レポート>KAKUTA「らぶゆ」
【ネタバレ分離】
観た芝居の感想です。
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
団体名 | KAKUTA |
回 | 第28回公演 |
題 | らぶゆ |
脚本 | 桑原裕子 |
演出 | 桑原裕子 |
日時場所 | 2019/06/02 (日) ~ 2019/06/09 (日) 本多劇場 |
KAKUTA?
劇団ホームページにはこんな紹介があります。
KAKUTAは1996年に結成した劇団です。
初期結成メンバー三人の名前の頭文字を取って名付けた劇団名ですが、現在は俳優・スタッフを含め17名の劇団員で構成されています。
演出に続き2001年から全公演の戯曲を手がける桑原裕子の作風は、緻密なプロットと生々しく存在する人物の交差で見せる群像劇が特徴で、市井の人びとがふとしたきっかけから日常を逸脱し、人生の大きな分岐点に直面していく姿を数多く描いてきました。
世代を問わない普遍的な視点と心を抉る物語性、そして劇団ならではの集団力で見せる劇世界。日の当たらない場所にスポットを当て、人生の生きづらさを掬い取ってゆく作品世界が、老若男女問わず広い客層に支持されています。また「日常と地続きの別世界」をテーマに、時には劇場を飛び出し、アトリエ、プラネタリウム、野外公演と様々な空間で公演を行っています。
浅草の遊園地はなやしきを借り切り、パーク全体で同時多発のストーリーを展開した公演や、アクティブ・リーディングという独自の手法で展開する朗読公演など、その企画性は多様さに富んでいます。スタイルはスタンダードに、発想は奔放に。いつまでも色褪せず、現代人の心を揺さぶり続ける上質な娯楽を創作する、それがKAKUTAの特色です。
事前に分かるストーリーは?
劇団ホームページには、こんな記載がありました。
誰にもしらせなければ このきもちは なかったことに できますか
観劇のきっかけ
昨年のiaku「逢いにいくの、雨だけど」で知った異儀田夏葉さんが気になるのと、小須田康人さんが出ているのが、観劇のきっかけです。
ネタバレしない程度の情報
上演時間・チケット価格・満足度
観劇した日時 | 2019年6月3日 19時00分〜 |
価格 | 5200円 全席指定(先行予約) |
上演時間 | 170分(85分-休10分-75分) |
個人的な満足度 CoRichに投稿 | ★★★★☆(4/5点満点) |
客席の様子
男女は半々か、6:4くらい。幅広い年齢層がいましたが、少しシニアな傾向か。
1人客が多いですが、大勢で連れ立って来られているお客さんも目立ちました。
観劇初心者の方へ
観劇初心者の方でも、安心して観劇できる舞台です。
観た直後のtweet
KAKUTA「らぶゆ」170分、休10分含。
劇場を出て下北沢の街を歩きだしてから、震えるような感情が押し寄せてきて困った。劇場ではそこまではなかったのに。これは途中経過報告。癒しの過程。そう考えると、自分にとってあの時間はなんだろうと考える。
観てて辛い人も多いと思うが、敢えてオススメ。— てっくぱぱ (@from_techpapa) 2019年6月3日
感想(ネタバレあり)
服役中に仲良くなった服役中の受刑者たち。その中のある人が「ここを出たら、田舎に古い家を借りて、農業とかやりながら、みんなで自給自足で暮らしたい」と言い出す。相手にしていない仲間たちだったが…。全員が出所後、その中の一人が、ひょんなことから福島のド田舎に土地と古びた民家を手に入れる。一緒に暮らさないかと、みんなを誘う。出所後の生きづらさを抱えている人々は、それぞれの生活の痛みを抱えながら田舎での暮らしを始める。村人には、前科者という事は隠して始めた生活。村の人との距離は縮まり、かつて服役していたという事さえ忘れそうな幸福な時間が訪れる。しかし、震災の地震をきっかけに、少しずつ明るみに出る、生きづらさの影。ある者は「人が人を愛する事なんて、本当に出来るのだろうか」と絶望しつつも、ある者は新たな希望も見出して物語は終わる。…強引にまとめてしまうとこんなお話。
ラストの30分前くらいまでは、「皆何かを抱えながら、それでも生きている群像劇」という印象が強かった。役者さんは皆さん上手いし、ひしひしと伝わる感情もあるのだが、このままだと、「田舎に移住した元・服役囚が、いろいろあったけれど幸せになりました」…というわりと普通な話になってしまうなぁ、と若干心配に。服役囚と田舎移住っていう設定も、どこかうまくリンクしてこなくて…それぞれの話はとても丁寧なのに、なぜか2つが出てくる必然が掴めない。この芝居はどう結末するんだろう、と、どこかメタ的に観ている自分に気付く。
作品の事前情報で、東日本大震災の話・・・とは耳にしていなかったと思うのだけれども。舞台の冒頭近く、手に入った土地が「福島」というのが明るみに出たところで、震災の話を連想してしまう。「福島」のキーワードは強力。途中、携帯電話がガラケーからスマホに代わる時代変化も、かなり細かく描かれているので、震災の話ではないかという想いが確信に変わる。そして案の定、最後に直撃する震災。震災と同時に、それまで再建してきた人間関係や生活が、どこか崩れてしまう。…崩壊、という程ではないのだけれど、それまでの方向とは、少しズレるていく。まるで崩れてしまった縁側の屋根のように、甚大だけど、どこか中途半端に壊れた関係に。ラストのシーンは、それぞれが、幸せになったり、不幸を背負ったままだったりと、どちらともとれる、あるいはどちらでもない結末が描かれる。
明転して。カーテンコール2回に拍手しつつ、やはり心の中で「服役した人の幸生きづらさ」と「田舎暮らし」と「震災の話」をうまくつなげらないでいた。その気持ちのまま、下北沢の街を歩き出して小劇場「楽園」の前あたりを歩いたところで、何だか言いしれぬ感情が襲ってきて思わず身震いしてしまった。
・・・この話が震災の何かを描きたいのだとすると、「元・服役囚」の話は一つのモチーフ的な要素でしかないのかな。震災から8年。あの時の苦痛だった体験。今ではすっかり癒えている人もいる。あるいは、まだまだ引きずっている人もいる。客席の観客も、様々なレベルで、様々な体験をしているし、それぞれの「癒え度合い」「辛さ度合い」があるはずだ。物語の中で、元・服役囚の共同生活が思いのほか上手く運んで、訳の分からないまま得られた幸福な状況が訪れるも、やはり訳の分からない震災がズラしていく。その喪失感の中にあって、新たな希望を求めていいのか、求めるにはまだ早いのか・・・というような、震災という体験の後、時間が経った後の変化の中で、事実をどう受け止めなおすのか決めかねているという葛藤を、表現したいのかなぁと気づく。人が何か強烈な体験から「癒える」までの、途中報告を芝居にしているような感覚。作者の意図として正しいかどうかは分からないけれど、そう思うと、奮い立つような感情が襲ってきた。
一言で言うと、「まだ、訳が分からない」という事だ。ズレて壊れてしまったのか、辛うじてズレただけで済んだのか、ズレたことで再発見した良さがあったのか。そんな、それぞれが感じる震災8年目の苦悩みたいなものを、訳の分からない「幸福と」「不幸と」を、元・服役囚という設定を借りて、語りたかったのかな、と考えた。
そうこうしているうちに、下北沢の街を駅に向かいながら、映画(ドラマ)「その街のこども 劇場版」を思い出した。この作品は、阪神淡路大震災から、15年目のお話。遠まわしながらも、「私は、向き合う」「私はまだ向き合えない」という、迷いの中の明確な決断をストレートに表現していたけれど(とはいえ、この作品でも森山未來演じる主人公は、結論を出せないまま、立ち尽くしているけれども)。
この作品「らぶゆ」は、まだ何かを正しく受け止めるには、まだ年月が、癒え方が、足りていない、という事を表現しているのかもしれない。そんな今の苦悩を、かろうじて切り取ろうとした舞台に思えた。劇場を出た後の方が、感情が押し寄せてくる。珍しい芝居だった。
・・・と私は感想を持つも、この芝居はいくつも解釈があるような気がするので、もう少しゆっくりと考えてみたい(元・服役囚の生き様にフォーカスした解釈はある気がする)。
役者さん・・・もう皆さん魅力的で。一人一人書けないので、お目当てさん+αだけで。
異儀田夏葉、味のある演技というのかな。公演特集のブログで、顔にコンプレックスとご自身で言ってたけれど・・・私的には、優しいのに葛藤している表情に結構ドキドキしてしまう。「逢いにいくの、雨だけど」は、遅れて行ったので結構後ろの方の席だったのを後悔。小須田康人、今日は1列目の座席で観れたのですが、小須田さんをこんなに近くで観たのは、「ファントム・ペイン」の大楽を福岡で観て以来。うーむ、カッコいい、カッコいい、渋くてカッコいい。森崎健吾改め、森崎健康。お目当てではなかったけれど・・・ろりえ「ミセスダイヤモンド」で、女性ワラワラな芝居なのに、ものすごく印象に残っていた役者さん。ただ、今回の舞台でみて、帰るまで「ミセスダイヤモンド」の役者さんだと繋がらなかったケド・・・。ちょっとねちっこい感じが大好き。
チラシの裏