<観劇レポート>アマヤドリ 秋のみちくさ公演「うそつき」
観た芝居の感想です。
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
団体名 | アマヤドリ |
回 | 秋のみちくさ公演 |
題 | うそつき |
脚本 | 広田淳一 |
演出 | 広田淳一 |
日時場所 | 2019/10/23 (水) ~ 2019/10/27 (日) スタジオ空洞(東京都) |
劇団紹介
劇団ホームページにはこんな紹介があります。
2001年に「ひょっとこ乱舞」として結成。2011年に「大爆破」と銘打って脱皮を遂げ、2012年に「アマヤドリ」へと改称して再スタートを切った。
現代口語から散文詩まで扱う「変幻自在の劇言語」と、共感性と個別化を主眼とした「自由自在の身体性」を活動の両輪とし、リズムとスピード・論理と情熱・悪意とアイロニー、とか、そういったものを縦横に駆使して「秩序立てられたカオス」としての舞台表現を追求している。
事前に分かるストーリーは?
劇団ホームページには、こんな記載がありました。
とある町のガソリンスタンド。
「カルタゴ・ノヴァ」と呼ばれるその店は、ナイルとスランプが営んでいる。
そこへ板垣という男が、ギーコを訪ねてやってくる。
しかしギーコは、板垣という男は知っているが、訪ねてきた男に見覚えが無いと言う。
顔を見合わせる3人だが、板垣を名乗る男は何事もないように日常に溶け込んできて……
観劇のきっかけ
関係者の方からお知らせを頂いたのがキッカケの観劇です。
ネタバレしない程度の情報
上演時間・チケット価格・満足度
観劇した日時 | 2019年10月25日 14時00分〜 |
価格 | 2500円 全席自由 (事前にネット予約) |
上演時間 | 100分(途中休憩なし) |
個人的な満足度 CoRichに投稿 | ★★★★☆ (4/5点満点) |
客席の様子
女性が7割、男性が3割。平日マチネという事で、学生さんっぽい年代と、主婦の方かな、という方が目立ちました。男性も含め幅広い年代の方がいました。
観劇初心者の方へ
観劇初心者でも、安心して観る事が出来る舞台です。
観た直後のtweet
アマヤドリ「うそつき」100分休無。
序盤スロースタート。現実か童話か、判然としない砂漠の端。生活、日々の温もり、生きてる事の実感。ラストの帰結で、そんなありふれた生活の感覚が、震える感情と共に立体化してきた。不思議な現実感だった。何かを説明し過ぎない感覚が、どこか懐かしい。オススメ pic.twitter.com/spM4Jbpk7O— てっくぱぱ (@from_techpapa) October 25, 2019
映像化の情報
情報はありません。
感想(ネタバレあり)
ストーリーは、事前紹介の通りだけれど。
物語の舞台は、戦争、しかも隣国に正に攻め込まれようとしている真っただ中。所々に挟まれる、プロジェクターを用いた字幕が、彼らの様子を伝えてくれる。板垣という男は、ギーコに金を貸している。いや、むしろかつての恋人?夫?だという。戦争で負傷して、整形手術を受けて顔が変わってしまったのだという。ギーコは、かつての恋人、顔が変わってしまって本人だとは判別できずに悩み。一方、スランプはお菓子作りが得意で、ガソリンスタンドで売ってるのに、ガソリンよりも儲かっている。そんな、現実なのか、童話なのか、よく分からない場所で巻き起こる、でも割と日常のお話。
感想を表現するのが難しい。強いてまとめるなら、人の生きて来た軌跡の残り香みたいなものを、ものすごく立体化していた舞台だった。
思考の流れを追ってみると。
前半。物語の導入というか、登場人物の背景が出そろうあたり。砂漠のガソリンスタンドで戦争中、という、現実なのか、おとぎ話なのか、よく分からない設定で。気だるい、のんびりしたような時間。いろいろと物語は起こっているのに、ここではこういう日常の、ゆっくした時間が流れているのかなぁ、という感覚。中頃くらいまで、最後にどう持って行くのかな、という思いが浮かび。
物語に出てくる、この世界の周りの状況、みたいなもの。戦争を伝える新聞は、劇中は二種類登場し。まるで読売と朝日、毎日と産経みたいに、物事を伝えるトーンが、思想が、異なっていて。空には時折戦闘機が飛び、隣国が迫ってきている事が、リアルである、という感覚もある。一方「エレファント」と呼ばれる何かが、会話の中で登場し。どうやら、人造生物か、ロボットか、そんなものを指しているよう。登場人物たちの周りの設定は、字幕で少し説明があるものの、結局終演まで、特に詳しい説明があったわけではなく。観る側に、想像する余地を残していて。
ラスト。国は陥落しそうだけれど、四人のあいだに特に何か、事件が起きているわけではない。単に、ナイルが板垣に「出ていってほしい」と、言っているだけなのだけれど。そこからにじみ出てくる、四人の過去、これまでの生きてきた道のり、・・・みたいなもの。ここで言い合う四人の何かが、少し明るみに出る。これまでの、気だるい砂漠や、戦争、エレファント、といった周りの状況が、ラストに向けた会話で、四人が生きている事を、突如浮かび上がらせてくれる。
芝居を表現する時、よく「立体化」っていう言葉が使われる。文学・小説・物語を、リアリティを持って表現する時、その手段として実際にナマの空間に築き上げる「芝居」を用いるときに使う言葉。ラストのシーンの四人、「うそつき」というタイトルの通り、何が本当で、何が「うそ」なのか、解釈は如何様にも出来るし、明確な回答が示される訳でもないのだけれど。芝居の尺という短い時間で、人が生きた温もりとか、悔しさとか、そういった生々しい感覚を「立体化」しようとしていたのかな、と感じる。だからこその、妙にリアリティのある、童話的な設定なのかな、と思った。
「エレファント」という言葉に代表されるような、劇中しっかりと解説がある訳ではないが、その世界に溶け込んでいる「もの」。このモチーフの登場のさせ方、最近あまり見ない手法かもなぁ、と、何だか懐かしさ。少し昔には、こんな物語の作り方が流行った時期があった気がするけれど、最近観なかったかもなぁ、という感覚。世界は本来曖昧だし、二時間程度の芝居で、その世界が全てクリアーに理解できる訳もないけれど、あえて脚注を書かない方が、観る側にいろいろと想像させてくれるのは、心地よい感覚だった。前回観たアマヤドリ「天国への登り方」は、私にとっては分かり易過ぎる、のがちょっとダメだったので、この方向性は意外だった。
書いてて気が付いた。どうしてギーコは、お菓子の大会に、自分の名前で応募したりしたんだろう、という事。2人の喧嘩の迫力で、あまり深く考えられていなかったけれど。応募する時にスランプの名前を書けば済むことだし、「見当違いの優しさ」な行動をするような人にも見えないのに、と思ってしまったのだけれど。・・・これは、スランプが「スランプ」っていう名前だった時に、感付けって事なのかなぁ。ナイルは鳥山明ファンなのかなぁ(笑)。スランプがエレファントだっていう事を基にして、物語を振り返ってみると、他にも気づきがあるのかもしれない。
役者さん。長谷川なつみ、今まで拝見した舞台では割とキチッとした感じの役が多かった気がするけれど、妖艶・・・っていう表現が正しいか分からないけれど、こんな役も魅力的にされるんだなぁ。一之瀬花音、いくら童話的なお話とはいえ、そしてクッキー屋さんとはいえ、ストレートに可愛すぎやしないか、と思ったけれど。ラストの下りで納得。梅田洋輔、カッコいいな、まずは。でも、影を背負っていて、それを割と受け止めているけれど、やっぱり影背負ってる、な複雑な感じが印象的。藤家矢麻刀、胡散臭いけれど、胡散臭過ぎずな感覚がいいなぁ。