<観劇レポート>あんよはじょうず。「もう会えないおまえのための三篇」
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
項目 | データ |
---|---|
団体名 | 演劇ひとりぼっちユニット あんよはじょうず。 |
回 | 番外公演 |
題 | もう会えないおまえのための三篇 |
脚本 | 高畑亜実 |
演出 | 高畑亜実 |
日時場所 | 2021/08/11(水)~2021/08/15(日) オメガ東京(東京都) |
団体の紹介
劇団ホームページにはこんな紹介があります。
こんにちは。
「演劇ひとりぼっちユニット あんよはじょうず。」と申します。
俳優として活動している、高畑亜実というひと(上の写真参照)が主宰をやっています。
台本を書いて、演出もします。
「ひとりぼっちユニット」と名乗っている通り、メンバーは主宰ひとりだけです。出演者は、主宰がその都度呼びたい俳優をストーキングし、脅したり女を使ったりしてなんとか出演して貰っています。
それは普通に嘘ですが、そのくらい俳優に執着してキャスティングしています。作風は、と尋ねられるとそもそもまだ二本(あんよはじょうず。名義でないものも含めると四本)しか書いていないので返答に困るし照れくさいのですが、それこそ「執着」の話なんだと思います。
ちっちゃいこどもや犬や猫が、きったねえボロボロのぬいぐるみをいつまでも大事に大事にしているのって、かわいいですよね。
それを大のおとなたちが、唾とか撒き散らしながら、「これはだいじなの!すてないで!」とかやっていたら、途端にキモいですよね。
でも、それ美しいよね、って話を書いています。たぶん。
過去の観劇
- 2021年12月31日 あんよはじょうず。「地獄変をみせてやる。―人生失笑(疾走)篇―」
事前に分かるストーリーは?
事前のストーリーの記載を見つけられませんでした。
ネタバレしない程度の情報
観劇日時・上演時間・価格
項目 | データ |
---|---|
観劇日時 | 2021年8月12日 19時30分〜 |
上演時間 | 60分(途中休憩なし) |
価格 | 3500円 全席自由 |
チケット購入方法
劇団のページから、Livepocketで予約・決済しました。
当日、QRコードを提示して入場しました。
客層・客席の様子
男女比は5:5くらい。
男性は40代up。女性は20代の若い人が目立ちました。
観劇初心者の方へ
観劇初心者でも、安心して観る事が出来る芝居です。
観た直後のtweet
演劇ひとりぼっちユニット あんよはじょうず。「もう会えないおまえのための三篇」60分休無
鮮烈な表現だった。物語、すごく難しく語られてるけど、実はシンプルな事を言いたいのかもと思う。手招きしても決して戻らない、何かの喪失を、郷愁し怒るような。役者の魅力の引き出し方が最高。超オススメ。 pic.twitter.com/OmLlBTeNkR— てっくぱぱ (@from_techpapa) August 12, 2021
満足度
(5/5点満点)
CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
感想(ネタバレあり)
物語はちょっと難解。タイトル「もう会えないおまえのための三篇」の通り。もう二度と会えなくなってしまった人々との思い出を語る。3つの話が、断片的に散りばめられていて、ザッピングのようにいろいろな情報が入ってくるので、表面的なストーリーは理解し難い。でも、観終わって頭を冷やしながら思い返してみると、意外とシンプルな話なのかもしれない、と思いなおす。以下は、私の解釈だけれども。
1つは、流産に伴ってそもそも出会えなかった子供との別れ。1つは、何らかの理由で少年院?に入ってしまった友達との別れ。1つは、学生の頃の叶わぬ恋。その3つの話が、ザッピングされて描かれる。脳内の強烈な自我だったり自意識だったりが、チラシにあるような強烈なビジュアルと共に描かれる(こういうの何ていうんだろ。・・・ビジュアル系、って死語かな)。普通の感覚ではない。どこか狂気を孕んだ爆音でカラフルな表現は、内面の感情を投影したもののように思われる。セリフは少なめで、リフレインも伴っているのに、数少ない言葉で、展開する世界と関係を射抜いてしまう鋭さを併せ持つ。なので、細かい情報をどこまで真に受けたらいいのかも迷う。たとえば久保親子は、「パパ」だし「男」のようだけれど(「パパ」って言ったよね?、ってセリフは正に客の代弁で絶妙)。それ、どう解釈したらいいのか、みたいなのは、正直よく分からなかった。
感覚的に受け取れたものが正しいなら、何でこんなに難解なのか…と考えてしまうのだけれど。これは、一種の照れ隠しなのかな、という気もする。あるいは、感情へのケリの付け方、供養の仕方、とでもいうのか。・・・どんな表現でもそうなのだろうけれど、私的な怒りや悲しみは、ストレートに表現すると、それは表現としては目も当てられない程凡庸なものになってしまう(そして、そういう表現に遭遇すると、ブルータスお前もか!と思ってしまうのだけれど)。でも、当然、抱えている側からすると、その痛みはあまりにも切実で。劇中の役者たちがとにかく大声で叫ぶのと同様、ぶつけようのない場所に怒りを込めたり、嘆くしかない、深い出来事、なのかもしれない。凡庸な表現とは一線を画して、湧き上がる何かを一度突き放したからこそ、難解になったのだろうか。テンポのいい音楽、派手な照明やビジュアルも、その突き放した部分に繋がっている。不思議だったのは、強烈な感情なのに、客席側に、感情のうねり、みたいなものはそれ程感じなかった事。これも、照れ隠しが上手く機能しているから、という気もする。
この作品が、盛大な弔いの私戯曲なのか、照れ隠しを装った完璧な虚構の産物なのか、実は判断が付かなかった。多分、前者の要素が強いのではないか、という気もする。感情のうねりが無かったので、ある意味傍観者的に観れた。ただ、表現を受け止める側、という意味では、どちらだとしても、本質的にはどうでもいい事だろうけれども。
演劇の作りが、とにかく鮮烈。60分と短いし、短期でダダダと撃ちまくる、リズミカルにテンポ早く進む舞台。爆音とカラフルな照明は、どこか80-90年代の小劇場を思い起こさせる(ただ、古臭さは全くない)。ハイヒールに拘るような美意識の、美しさの追求。どこか女王様的、とでもいうのか(いやはや、語彙が貧弱で困る)。Twitterを見ていたら、「アングラ」と書いていた人がいたけれど、いやー、アングラはこんなに洗練された表現をやってのけたりしないよ、という気もする(アングラに失礼か)。
チラシのビジュアルのような、役者さんの魅せ方がたまらなく魅力的。奥泉、冒頭どこか「真夏の夜の夢」のパックのような語り口調にグググと引き込まれる。中野亜美、大塚由祈子、これまで拝見したのと全然違う変容っぷり。晏爾、福田晴香、意地悪に追い詰めていく所が好き。全体的に、みんな意地悪なところが、ゾクゾクする程魅力的。
多分、オメガ東京では少し狭すぎる。特にタッパ(高さ)が低すぎる。狭いからこそ出来る表現、という面もあるのだと思うけれど、スズナリくらいの場所でも全然いける。コロナが終息したら、もう少しスケール感のある場所でも観てみたい。